戦争の歴史を刻む−稚内赤れんが通信所(稚内)

Sponsored Link

稚内の街から少し山間にある恵北地区には、旧海軍の無線送信所があります。この送信所からも、真珠湾攻撃の暗号電文である「ニイタカヤマノボレ ヒトフタマルハチ」を日本艦隊に打電したと伝えられています。2020(令和2)年7月、改修工事が終了し、2日間限りの一般公開が行われました。

稚内赤れんが通信所

目次

稚内赤れんが通信所とは

 正確には「旧海軍大湊通信隊稚内分遣隊幕別送信所」という名前のようですが、通称は「稚内赤れんが通信所」です。建物は3棟残されており、それぞれA棟、B棟、C棟と呼ばれています。

A棟

 1931(昭和6)年ごろに建設。面積875.3平方メートル。内部見学不可。

B棟

  1941(昭和16)年ごろ建設。面積約475平方メートル。木造。屋根部分の改修が完了し、扉も新しく取り付けられました。

C棟

 1931(昭和6)年ごろ建設。面積69.58平方メートル。

  稚内赤れんが通信所は、極秘裏に建設され、機密性の高い軍事情報を扱っていたため、現存する資料はほとんど残っていないのが現状のようです。建設された時期も、建物の用途も、断定することは難しいとのことです。近年、この建物を知る人たちからの聞き取り調査などが進められ、だんだんと当時のことがわかってきました。

 現在は残っていませんが、3棟の建物の他に、官舎4棟、用水ポンプ室、消防ポンプ室、発電室、車庫、燃料庫、石炭庫、食糧庫が整備され、長波用のアンテナ鉄塔2本が建設されていたそうです。

  この貴重な建物を後世へ残そうと、2019(令和元)年には、クラウドファンディングを行い、市民からも多くの寄付が寄せられました。寄付や多くの支援によって、B棟の屋根が修復され、2020年7月18日・19日には、2日間限りの一般公開となりました(一般公開日以外は、稚内市に問い合わせ・予約することで見学できます)。

A棟内部は公開されていません

 公開されていないんですが、窓からチラッと覗いて見ますと…

建物の中で木が育ってました

 屋根も壊れて、木が育ち…こっちは修復する前に木をなんとかしないと!

当時のままです

  個室のようにも見えますね。 この建物で、どんなことが行われていたのでしょう? 知る由もありません。

B棟内部の様子

  今回新たに修復されたB棟内部の様子です。B棟は一時、屋根がほとんど崩落しましたが、下の写真のように修復されました。

修復された屋根 望楼

  屋根が一部分だけなのは予算の関係でしょう…やっぱり修復にはお金がかかるんですね…。望楼には、登ることができます。

B棟の屋根のない部分

  屋根はありませんが、中を見られるだけでも価値がありますね。

屋根がある部分と無い部分…屋根のないところは、冬は雪が積もりそう…

  屋根のある部分の上が、望楼になっています。望楼へ登るための階段があるのですが…メチャクチャ急な階段! 優しさのカケラもない。

降りる時はしがみつきながら…

  昔の階段って、こんな感じですよね…。階段もそうですが、急激に人が望楼へ登りまくっており、壊れないか心配でした(笑)

望楼からみたA棟

 A棟の屋根も結構ヤバいですね…。

 B棟は、2005(平成17)年のNHKドラマ「望郷」のロケ地にもなりました。

ロケの際に作られた二段ベット

  ドラマはシベリア抑留がテーマで、その時作られた二段ベットがそのままになっています。15年も経てば、昔からあったみたいに思えますね。ちなみに2018(平成30)年公開「北の桜守」のロケ地にもなっています。

C棟内部

C棟内部

 C棟内部では、様々な資料・写真が展示されていました。建物を修繕する前は、コウモリだらけだったそうです。

「ニイタカヤマノボレ」…戦時中は重要な無線基地だった

  稚内赤れんが通信所は、大本営海軍部と直結した送受信基地で、真珠湾攻撃の暗号電文「ニイタカヤマノボレ ヒトフタマルハチ」を送ったと、当時勤務していた軍人が証言されたそうです。文書の記録こそ残っていませんが、この無線基地がいかに重要であったか推測されます。

「ニイタカヤマ」は、当時日本領だった台湾の山の名前で、富士山よりも高く、日本最高峰とされていたそうです。「ヒトフタマルハチ」は、「一二〇八」で、12月8日。全てつなげると、「12月8日に戦闘行動を開始せよ」という意味で、本当に登山するわけじゃないのですね…(バカですね、ハイ)。映画「トラ!トラ!トラ!」でも見て勉強します…。

戦後は米軍が駐留、市民との交流も

  戦後、稚内赤れんが通信所は、1948(昭和23)年から1959(昭和34)年ごろまでアメリカ軍が駐留し、通信施設としていました。

アメリカ軍が駐留している期間は、市民との暖かな交流がつづきました。地元で開催されるお祭りや、運動会などの行事にアメリカ兵も参加しました。基地のクリスマスパーティーには、幕別小中学校の全校生徒が招待を受け、楽器や体育の運動用具を寄贈されることもありました。また、幕別中学校には、教員免許を持つ兵士が英語教師として教壇に立つことも。卒業式の際、優秀な生徒には英語辞書がプレゼントされたんだそうです。

 冬場、吹雪のために鉄道や道路が通行止めとなってしまった際、地域住民が急病に倒れたときなどは、アメリカ軍の雪上車で、病院まで送り届けることもありました。アメリカ兵と地域住民には、確かな絆があったんですね。

市民との交流がありました

  アメリカ軍が撤退したのちは、建物は無人となりました。2006(平成18)年には、稚内市が土地と建物を取得、翌年から民間団体「稚内市歴史・まち研究会」がボランティアにより管理活動を開始しました。

おわりに

 戦争の歴史・恵北の歴史を現在に伝える稚内赤れんが通信所。平和のため、地域のため、いつまでも保存されることを願います。また、稚内市役所に問い合わせ・予約すると見学することができますので、興味のある方は是非見学しに来てください(普段はゲートが閉まっており、自由に見学することはできません)。

問い合わせ先:稚内市役所文化振興グループ(TEL)0162-23-6056

参考文献

  • 恵北開基百年記念事業協賛会「恵北開基百年誌」2003
  • 稚内を歩こうシリーズ旧海軍無線送信所跡フットパス パンフレット
  • 稚内市歴史・まち研究会 発行説明文
  • 熊田要二・斉藤譲一「稚内における大湊警備府関連施設についてー稚内赤れんが通信所(旧海軍大湊通信隊稚内分遣隊幕別送信所)を中心にー」
  • 「稚内赤れんが通信所B棟の屋根改修完了」「日刊宗谷」2020年6月25日
  • 伊藤駿「赤れんが通信所を公開」「北海道新聞」2019年5月26日

Sponsored Link