廃墟が教えてくれる−羽幌炭砿
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北海道の忘れてはならない歴史の一つが、炭砿の歴史である。エネルギー革命によって、石炭の歴史は幕を閉じるわけだが、廃墟となった今でも、たくさんの人々の足跡が今も感じられる。当時の人々の息遣いを感じながら、羽幌炭鉱を訪ねた。
目次
羽幌炭砿とは
かつて石炭王国と言われた北海道は、夕張や三笠、釧路など、石炭の街は数えきれないほどあった。しかしながら、エネルギーの主役が石油から石油へと移り変わってゆくとともに、石炭の街は過疎化が進み、その足跡さえも消え去ってゆく。あたかも元から誰もいなかったかのようだ。
羽幌町の中心部から23キロ付近の山中に拓かれた「羽幌炭砿」は、1940(昭和15)年に本格的な操業を開始したとあって、当時の遺構が様々な形で残されている。それらはほんのわずかだが、かつて1万人を超える労働者が働いていた。
羽幌町の石炭の調査は、1888(明治21)年にはすでに行われていたが、山深い場所であり、運搬不可能ということで長い間手付かずのままであった。本格的な操業にあたって、1940(昭和16)年には16.6キロメートルの羽幌炭砿鉄道が敷設された。戦時下での鉄道敷設のため、鋼材が不足し、全国から様々な橋桁を寄せ集めて建設した。現在残っている橋桁も、不揃いのままである(羽幌炭砿鉄道は1970(昭和45)年廃止)。
駅の周辺には小学校や病院、映画館なども建てられた。
羽幌炭砿鉄道病院は、1944(昭和19)年に病院としての形態が整い、1956(昭和31)年には内科、外科、産婦人科、耳鼻科があり、病室14室、ベット数50、医師5名に看護師も含め38名だったという。1971(昭和46)年に閉院。
1969(昭和44)年8月に2棟48戸・さらに9月に2棟48戸が完成。近代的4階建て鉄筋コンクリートで水洗トイレ、グリーンとブルーの屋根、クリーム色の壁という当時としては洒落たデザインの建築。現在は3棟が残されている。アパートの壁に「69R–1」とあるのは、建てられた1969年を表している。炭砿の閉山1年前にアパートが建てられたというのも、なんだか悲しい。
1961(昭和36)年には、年間出炭量100万トンを超え、ピークの1968(昭和43)年には年間出炭量114万トンを採掘した。純度の高い良質な石炭は、灰と煙の少ない家庭用暖房燃料としても重宝された。1969(昭和44)年、突如坑道が断層とぶつかり、出炭量が減少、経営が悪化した。
国の石炭から石油へのエネルギー転換に伴い、特別閉山措置法を受け、1970(昭和45)年11月に閉山。30年間の総出炭量は1,458万トン。いまだ3,000万トン以上の埋蔵量があるとされる。
閉山から50年…
これらの遺構の周辺は、田畑となっており、のどかな風景が広がる。しかし、突如として貯炭場などが現れ、ドキッとさせられた。当時の生活の息吹が感じられるが、しかしそこに人はいない。そこに廃墟特有の「何か」を感じとることができる。
今は田畑となった場所にも、多くの家族が住まいし、山の中にも華やかな生活が存在していた。そこには様々なドラマがあったことだろう。それらはもはや形跡はない。点在する遺構のみが、人々に語りかけてくるだけだ。
北海道は、かつて炭砿の街だった場所は多いが、これほどまでにたくさんの遺構が残され、自由に見学できる所は数少ない。
見学の際の注意
当然の山の中に遺構は存在し、途中から圏外になるので、電話もネットも使えなくなります。地図などは印刷するか、ダウンロードしておくことをお勧めします。遺構には看板などもなく探すのが大変なので、地図は必須かと…。→羽幌炭砿探訪MAP
建物が老朽化しており、危険であることはもちろん、遺構の保全のため中に入らない。私有地になっているところもあるので、注意が必要。
人通りがほとんどないので、正直怖い。誰もいなくて寂しいのもさることながら、クマが出没する怖さである。沿岸ハイヤーによる「炭砿ガイドツアー」もあるので、利用されるてみるのも◎(11月下旬〜4月下旬は休)。沿岸ハイヤーTEL0164-62-1551
※今回の記事は「羽幌炭鉱探訪MAP」を参考に書かせていただきました。
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