樺太と北海道を結んだ海底ケーブル(猿払村)

Sponsored Link

 かつて日本の領土だった樺太との連絡は、海底ケーブルによって結ばれていた。しかし、戦後は樺太が日本の領土ではなくなったため、連絡が結ばれることはなくなった。そのような中で、電話連絡で使われていた中継地点の遺構なども、歴史の中に埋もれてしまおうとしている。樺太との連絡中継地であった猿払村には、海底ケーブルを残した「樺太との電気通信ゆかりの地」という記念碑が建てられている。

5本の海底ケーブル

目次

樺太との電気通信ゆかりの地

日露戦争以降、樺太が日本の統治下となり、本州や北海道との連絡を結ぶことは、急務であった。そこで、1934(昭和9)年から「南洋丸」という作業船で海底ケーブルの敷設が始まった。猿払村と、樺太の女麗(めれ)間は、ほとんど土砂で、水深が100メートル以内の理想的なルートだった。1937(昭和12)年には電話通信が開始されたと記録されている。

 ケーブルの直径は約4.8センチで、当時国内で初めて使用されたもの。開通後は、樺太〜北海道〜本州を結ぶ重要拠点となり、終戦までに5本のケーブルが宗谷海峡を結んだ。

樺太で散った電話交換手の悲劇

「皆さんこれが最後です」の言葉が刻まれている

 樺太には各地に電話交換台が設けられており、交換手が日々業務にあたっていた。電話交換手は、当時、女性たちの憧れの職業であった。しかし、単なる憧れだけでは職責を全うできないもので、電話を繋ぐ役割のみならず、戦時下にあっては、情報の要であった。

 1945(昭和20)年、戦況の悪化とともに、交換手の女性達は樺太から引き揚げていくわけであるが、交換手の仕事は、一朝一夕に担えるというものではない。一部の女性達は、戦争の激化する中でも樺太に残り、職務を全うした。

そして「真岡(現サハリン・ホルムスク)郵便局」における悲劇は起こった。もはやこれまでと覚悟した九人の交換手達は、あらかじめ渡されていた青酸カリにより、自決を遂げてしまう。「皆さんこれが最後です。さようなら さようなら」という彼女達の最後の言葉は、海底ケーブルを通って伝えらたとされる。

稚内公園にある慰霊碑

戦争のない未来へ…

ケーブルが通っていた場所

 「樺太との電気通信ゆかり地」は1974(昭和49)年に最初の記念碑が建立された。2009(平成21)年にはケーブルを透明な筒で覆うなど、再び整備されている。

 かつて樺太に渡った多くの人々の夢や希望。そして戦争によってはかなく散った命があった。そういった歴史を、この海底ケーブルは伝えている。



Sponsored Link