網走の歴史を伝える永専寺(網走)

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永専寺山門

網走といえば刑務所である。明治期は網走刑務所を網走監獄といった。監獄から出てきた人たちを、支援することに人生を捧げた「寺永法専(てらなが・ほうせん)」。彼が元服役者と共に歩んだ永専寺の山門は、1912(明治45)年につくられた網走刑務所の正門である。

目次

寺永法専

寺永法専

寺永法専は、1868(明治元)年石川県高松で生まれる。19歳で開拓地北海道での布教を決意し、22歳のとき、網走で説教所を開く。

当時は北海道での道路開削が始められたばかり。劣悪な環境での道路づくりの最中、亡くなる囚人が後を立たたなかった。

囚徒たちの惨状に心を痛めた法専は、監獄で囚徒たちを教え諭す、教誨師になろうと決心するが、なかなか認められなかった。1894(明治27)年ようやく教誨をゆるされ、そこから法専は、生涯にわたって免囚のために尽くしていく。

刑期を終えたり、恩赦によって監獄から出てきた免囚は、行く当てのない者がほとんどであり、そういった人たちを法専は自宅に引き取ったという。家族と寝食を共にしながら職を探し、更生の道へと導いた。

しかし、免囚たちへの社会からの視線というものは厳しく、職にありつくことは困難であった。また、就職を果たしても、すぐに辞めてしまったり、こそ泥を働く者、遊びまわる者もいて、更生の道は険しかった。

市民からは危険視され、新聞には、「泥棒の下宿屋」と書かれることもあった。寄宿舎の経営が火の車となりながらも、法専は諭し、導く道をあきらめなかったという。

寄宿舎では食事の際、おかずの大小を巡っての諍いなどを避けるため、同じ大きさ、量にすることに気を配った。どの収容者にも別け隔てなく接するよう務めた。

1932(昭和7)年、法専は64歳でこの世を去るが、その頃には「この街で悪いことをすると大将(法専)に迷惑を掛ける」と言い交わすようになっていた。法専の葬式には、世話をされた人々、法専を慕った多くの人々が列をなしたといわれている。

永専寺に網走刑務所の正門が払い下げられる

永専寺山門

1912(明治45)年につくられた刑務所の建物を新しくする際、刑務所の正門は、縁の深い永専寺に山門として払い下げられることとなった。1924(大正13)年のことである。

これは法専が、免囚たちの社会への門戸を開こうと尽力したからに他ならない。

1912(明治45)年に建てられた網走監獄は「網走監獄博物館」として保存、一般公開されている。

また、法専がきり拓いた更生のための宿舎と精神は「更生保護法人網走慈恵院」として現在に受け継がれている。

参考文献:網走監獄博物館パンフレット

記事制作にあたって網走監獄博物館展示を参考にさせていただきました

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