利尻島・礼文島に残るニシン漁の遺構

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かつて北海道で盛んだったニシン漁。1897(明治30)年にニシン漁は最盛期を迎えましたが、その後は衰退の一途を辿りました。今回は、利尻島や礼文島にわずかに残ったニシン漁時代の遺構を探しました。

目次

ニシン漁最盛期と現在

北海道でニシンが1番漁獲されていたのは、1897(明治30)年のことで、973,776トン。そのうち宗谷地方での漁獲は214,000トン。全体の漁獲量に対して、宗谷地方の占める割合は21%にも及びます。いかに宗谷地方で、ニシンが獲れていたかということがわかります。その後のニシンの漁獲高は盛衰を繰り返しながら、1954(昭和29)年ごろには、ニシンはほとんど獲れなくなり、幻の魚となってしましました。

 しかし、1996(平成8)年から始められたニシンの放流事業により、ニシンの漁獲量は徐々に増加しています。2019(令和元)年には14,700トンのニシンを漁獲しました。近年では、北海道沿岸でニシンの群来が確認されるようになってきましたが、全盛期には遠く及ばないのが現状です。

2020年のニシン群来(くき)

1897(明治30)年の全盛期には、現在の65倍以上ニシンが獲れていたわけですから、漁業に携わる人たちも大変多かったことが想像できますね。

利尻島・礼文島に残るニシン漁の遺構

 現在の利尻島・礼文島には、ニシン漁時代の遺構がいくつか残されています。元標(もとひょう)や袋澗(ふくろま)などが代表的な例です。

元標

元標

 上部写真は、礼文島スコトン岬にある「元標」です。元標とは、副標とともに2つ1組で利用されるもので、漁業者が海中に設置する定置網(建網)の場所を決めるために利用されるものです。基礎部分には、左から魚種、網の種類、許可番号の順に記載されています。写真の場合、「ニシン・定置網・583号」というわけですね。元標は、もちろん利尻島にも多数残されています。

袋澗

袋澗(海の中にある石垣のようなもの)

袋澗とは、春先の岩礁地帯に来遊するニシンを漁獲するための施設です。春先は南西の風が強く海が荒れるため、安全にニシンを漁獲するために小さな港のような施設を作りました。袋澗はニシンの漁獲のほか、袋網に入れたニシンの一時保存、船溜まり、避難港としても使われたそうです。多くの袋澗は漁港などに改造されたりして失われましたが、残されたものは「北海道遺産」に指定されているものもあります。写真は、利尻島鴛泊に残されている旧柳谷漁場の袋澗で、泉の澗とも呼ばれています。

利尻島には35基、礼文島には60基の袋澗があったとされています。

仙法志御崎公園の袋澗

観光地となっている利尻島「御崎公園」の袋澗の中では、アザラシが泳ぎ観光客からエサをもらっていました。こちらの袋澗はアザラシ用に改造されています。

北海道の歴史に欠かせないニシン

北海道各地で漁獲されていたニシン。街の博物館などに行くと、必ずニシン漁に使った道具などの展示を見ることができます。北海道の歴史に、ニシンは欠かせない存在なのですね。

ニシンを運ぶための道具−モッコ

 利尻島や礼文島では、今ではほとんど失われた元標や袋澗など、博物館には展示できないニシン漁の遺構を見ることができます。海岸線を歩きながら、ニシン漁の時代に思いを馳せ、遺構を探し歩くのも利尻島・礼文島ならではの思い出になるかと思います。

  • 参考文献
  • 飯田勇「稚内の鰊漁業」稚内市教育委員会1990年pp.7-8
  • 北海道水産統計 http://www.pref.hokkaido.lg.jp/sr/sum/03kanrig/sui_toukei/R1gaihou.pdf
  • 礼文島歴史遺産パンフレット
  • 利尻富士町教育委員会「利尻島に残るニシン場の袋澗」印刷物 http://202.212.133.162/rishirifuji/secure/1362/fukuroma.pdf

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